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rds:ebby [2019/06/18 03:28] (現在)
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ライン 1: ライン 1:
 +======エビー======
 +
 +<box 95% #E4ECF4>
 +出典:
 +<​cite>​
 +Mel B. (1998), //Ebby: The Man Who Sponsored Bill.W//, MN: Hazelden, [[amazon.jp>​156838162X|amazon.jp]]
 +</​cite>​
 +</​box>​
 +
 +=====Forward=====
 +\\
 +==1934年==
 +
 +  * フランクリン・ルーズベルト:​ [[wpjp>​世界恐慌]],​ "The only thing we have to fear is fear itself"​
 +  * [[wpjp>​アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]の終わり(1933年)
 +  * 映画『[[wpjp>​キングコング]]』10セント
 +  * 平均世帯収入は $1,048
 +  * エビー・Tがビル・Wにメッセージを運んだ。
 +
 + エビーがAAに果たした役割は、ビルにメッセージを運んだのみ。\\
 + ビッグブックやAAの発展にはあまり寄与していない。\\
 + なのにビルはエビーをスポンサーと呼び続けた。\\
 + 「ビルの友情にただ乗りしている」と言われた。
 +
 +==エビーのその後は、どこのAAグループにもいるパターン。==
 +
 + ソブラエティを得た後、繰り返されるスリップ。\\
 + AAプログラムのつかみが弱く、回復の輝く見本にならない。
 +
 +==エビーを取り上げる理由==
 +
 +  * **正直**:個人の回復に重要ならば、集団の成長にも必要なはず。AAは、Oxford Groupの果たした役割を過小評価してきた。まるで、ビル・Wとドクター・ボブの出会いがAAをもたらしたかのように(それは結果であって起源ではない)。
 +  * **感謝**:ビルはエビーへの感謝を決して失わなかった。そのことは、飲酒に戻ってしまうスポンサーやメンバーに対して、過度に批判的になるAAメンバーには良いレッスンになる。
 +  * **知識**:過去から学ぶ。エビーがOxford Groupから受けたスポンサーシップ。人は他の人を助けようとすることで自分自身を助ける。その基本的なアイデアにはなんら変更がない。
 +  * **愛と忍耐**:ビルがエビーに対して示し続けたもの。
 +  * **好奇心**:エビーの人生への。
 +
 +=====A Call from an Old Friend=====
 +\\
 +==エビーの訪問==
 +
 + 1934年11月下旬。(ビル・Wは[[wpjp>>​復員軍人の日|休戦記念日]](11月11日)に飲み始めた)。
 +
 + ビル・W --- 6年前には経済的に大成功していた株のブローカーだったが、1929年の世界恐慌以降、二度のチャンスを酒で棒に振り、金も信用も失っていた。
 +
 + 古い友人エビーが電話をかけてきた。ビルはエビーが「アルコール性の精神異常で精神病院に入れられた」と聞いていたので、「やつはどうやって逃げ出したのだろう」と思いながらも、一緒に飲むつもりだった。
 +
 + しかし、やってきたエビーは酒を飲まず、数ヶ月前、バーモント州ベニントンで、オックスフォード・グループの3人のメンバーが彼を助けてくれた、という話をした。O.G.のスピリチュアルなプログラムについても話をした。
 + エビーが帰った後、ロイスと話をした。夫婦の間で長い間使わなかった言葉がでた。「希望」'​hope'​
 +
 +==エビーの再訪==
 +
 + 別の日の午後、エビーはO.G.のメンバーのシェフ・Cを伴ってビルを再訪する。しかし、シェフがO.G.の自慢話ばかりするので、ビルは腹を立ててさらに酒を飲んだ。\\
 + (ビルはシェフはマンチェスター州バーモントで1919年以来の知り合いだった)。\\
 +
 +==カルバリー伝道所へ==
 +
 + マンハッタンのCalvary Mission(カルバリー伝道所)を訪れる。\\
 + エビーがそこに泊まっていると聞いていたから。\\
 +
 +  *この伝道所はEpiscopalian Calvary Church(聖公会カルバリー教会)が運営していた。
 +  *Dr. Sam Shoemaker -- O.G.で大きな役割を果たした人。後にビルのメンターになる。\\
 +  *カルバリー伝道所 -- 1926-36 アルコホーリクに宿泊・一日2回の食事・スピリチュアルなメッセージを提供。\\
 +
 + 駅からの途中何軒ものバーに寄って遅くなり、伝道所でTex Franciscoに追い返されそうになるが、エビーが迎えてくれる。ビルは群衆の前に進み出て、「自分の生命を神に捧げる」としゃべった(ビルは憶えていない)。\\
 + ビルは帰宅後よく眠った。自分の病気を癌に例えて考えた。
 +
 +==タウンズ病院入院==
 +
 + 1934/​12/​11に入院。\\
 + 解毒後、ビルはうつになる。自分は死んだ方が良いと考えるようになった。\\
 + 12/14 エビーが面会。\\
 + ビルの "Hot Flash"​。\\
 + その6ヵ月後、商用でオハイオ州アクロンを訪れ、ドクター・ボブと出会う。
 +
 +=====Friends from Different World=====
 +\\
 +**境遇の異なった二人の出会いと共通点**\\
 +\\
 +ビルとエビーは、バーモント州マンチェスターで知り合った。ビルのほうが5ヵ月年上。1年間同じハイスクールに通った。だが、二人の境遇は異なっていた。\\
 +\\
 +ビルは、1895年11月26日生まれ。バーモント州East Dorset --- Manchesterより7マイル北のリゾート地で、そこに来る裕福な人たちは「サマーピープル」と呼ばれていた。\\
 +
 +ビルを溺愛した母方の祖父 Fayette Griffith は、商売を成功させた人だった(エビーたちはさらに裕福だったが)。Fayetteの従兄弟の一人はマンチェスター州で最初のミリオネアになった。また、一族の中には裁判官、弁護士その他の専門職や、州内で有名な事業家が多く、ビルはその血筋を誇りにしていた。
 +
 +エビーはビジネスと政治に関わった血筋だった。その源流はイギリスで、1635年、植民地時代にアメリカに来た。ボストン市の教会の最初の牧師になった(なのでボストン市には Thacher Street がある)。その父や祖父はイギリスで教区牧師(司教代理に相当)。5代にわたって聖職。独立戦争の軍人の中にもサッチャー一族の名前がある。
 +
 +エビーの祖父、George H. Thacher (1818-87)。1849年にオールバニに来て、52年に列車の車輪の会社を創業。鉄道が輸送の主流を占める時代だった。
 +
 +エビーの父、George H. Thacher, Jr (1851-1929) とおじ、John Boyd Thacher (1847-1909) の時代に会社はさらに発展。
 +
 +祖父のジョージの時から、サッチャー家は民主党支持。南北戦争の前年1860年にジョージがオールバニの市長に選ばれた。奴隷制度反対派で、エイブラハム・リンカーンの1960年の当選をサポートした。
 +
 +エビーには4人の兄がいた。この他に二人が幼いうちに亡くなった。\\
 +  * John Boyd "​Jack"​ Thacher II。1882-1957。おじの名前をもらった。法律家。オールバニ市長。\\
 +  * George 1881- マサチューセッツ州で給炭機メーカーを経営した。\\
 +  * Thomas 1884- ニューヨークとデトロイトで株式ブローカー。\\
 +  * Kenelm(Ken) 1892- John同様にオールバニにとどまり、後にEbbyの世話をした。\\
 +Jackは法律の学位を得るためにオールバニ・ロースクールへ、他の三人の兄はプリンストン大学へ進んだ。\\
 +
 +Albany Academyはプレパラトリー・スクール(大学進学を目指す学校)。兄弟たちは文武に活躍。4人の兄のうち3人はプリンストン大学へ、Johnは地元の法律学校へ。エビーは1903年に入学したが、卒業しないまま1915年に出ている。ただ、別の学校で学んだ単位を認めてもらえないなど、不利なこともあり、その恨みから卒業の意欲を失ったという話を後にAAでしている。
 +
 +Ebby は1896年4月29日に生まれた。フルネームは Edwin Throckmorton Thacher。それがなぜエビーと呼ばれるようになったのか分からない。家族はEddieと呼んでいたが、それよりも上品にEbbieと友だちから呼ばれたからではないかと。
 +
 +エビーの父と兄3人は大酒家になったが、エビーのようにはならなかった。
 +
 +ビルは成功した祖父のもとで特権的存在だったが、それは人口わずか300人の村でのこと。一方、エビーはニューヨークでも名の通った一族の子だった。だが、どちらも家族のプレッシャーのもとで育った。エビーは光り輝く兄たちの陰で自分はとうていかなわない。ビルは祖父から常にナンバーワンであれと。
 +
 +=====Summer People in Manchester=====
 +\\
 +**エビーの幼い日々**\\
 +\\
 +ビルとエビーが会ったのは1911年頃(15~16才)。当時ビルは地元の野球チームでエースピッチャーだった。\\
 +\\
 +ロイス・バーナムと結婚したのは1918年。\\
 +ロイスによれば、エビーは実は彼女の兄ロジャースと親しく、ビルはエビーの兄のケンと親しかった。\\
 +ロイスはビルの4.5才年上だった。\\
 +
 +ビルは「ロイスの一家は、バーモント人たちが city folks(都会の人たち)と呼ぶ人たちの典型で、ビルは強い劣等感を抱いた。ビルのまわりの人たちはまだナイフだけ使って食事をし、裏口の外の階段で立ち小便をしていた。そんな彼女が自分に感心を持ってくれて、すごく励まされた」と述べている。
 +
 +サッチャー家(エビーら)がマンチェスターで借りた夏用別荘は、バーナム家(ロイスら)の向かいだった。\\
 +
 +マンチェスターはオールバニから60マイル。有名なサマーリゾート(現在でも)。代々滞在する人々は土地の人と見分けがつかなくなった。サッチャー家もその一つ。1923年に家を購入。\\
 +
 +マンチェスターにはエクワノック・カントリー・クラブというゴルフコースがあり、そこでは「リンカーン四人組」がプレイする姿が見られた。エイブラハム・リンカーンの息子ロバート・トッド・リンカーンやジョージ・H・サッチャー(エビーの父)がいた。またクラーク・バーナム医師(ロイスの父)もこの4人とよくプレイしていた。ビルが「少年のころにあこがれていた高級ゴルフコース」と書いたもの。\\
 +
 +両家はエビーの子供時代からの親しい付き合いで、バーナム家は年の半分はマンチェスターで過ごしていた。ロイスの父(Dr. Clark Burnham)はブルックリンで有名な内科医だったが、多くの患者が彼と一緒にマンチェスターに来ていたので、長期のバケーションが可能だった。
 +
 +イタズラ好きで甘やかされた子・・・エビーとロジャーで家出をしたこともある。この近くでは採れない大きな魚を手に入れてきて、釣ったように見せて写真を撮ったりした。
 +
 +ただ、マンチェスターは後にOGが盛んな土地で、そういう意味で重要な土地。
 +
 +
 +
 +=====Golden Days in Albany=====
 +
 +**エビーがマンチェスターで酒を飲んでいた様子**\\
 +
 +エビーが初めて自分で酒を注文して飲んだのは1914年、19才の時だった。オールバニの最高級ホテル、テン・アイクだった。\\
 +
 +オールバニ・アカデミーは陸軍士官学校でもあり、エビーは軍事演習競争で優勝し、そのお祝いにレストランで友人と大酒を飲んだ。それが校長の耳に入り、中退することになった。彼は二度と学業に戻ることはなかったが、会う人々に十分な教育を受けた男という印象を与えた。\\
 +
 +1915年、父親の鋳物工場で働くようになる。遅刻するようになり、酒が原因で怪我をした警備員から、酒は癖になると注意された。\\
 +
 +第一次大戦が終わり、禁酒法の時代。飲み方にムラがあり、問題なく飲めたときも、飲んだくれてしまった時もあった。\\
 +
 +エビーとビルは、ほとんどの初期AAメンバーと同じように、禁酒法の時代(1920-1933年)に酒を飲んでいた。だが、酒の入手は難しくなかった。\\
 +
 +ビルが第一次大戦の従軍から還ってきたので、彼をマンチェスターで見かけるようになった。だが、会ったときにほとんどいつもエビーは飲んでいたが、ビルはまだ飲み始めていなかった。ビルが飲み始めるのはもっと後のこと。後にエビーはニューヨークに行くようになるが、ビルの話のとおり、エビーがニューヨークに行ったときはたいていひどく酔っ払っていた。\\
 +
 +だが、ビルは1926年か27年には深刻なアルコホーリクになっていた。エビーはウィルソン家にしょっちゅう酔っ払って電話をかけていたので、それがエビーの飲酒のほうが、ビルよりもずっと深刻だという印象を作り出したのかも知れない。いずれにせよ、二人とも1920年代に急速にアルコホリズムを悪化させていた。\\
 +
 +サッチャー・カンパニーでは、兄のトーマスが副社長、ケンが生産部長、エビーは購買係だったがあまり役割は明確ではなかった。会社は1922年に閉鎖された。70年以上続いた会社が閉鎖された原因は、父親の経営失敗によるもの。\\
 +それでも1929年に父が亡くなったとき、息子たちそれぞれに15万ドルは残せただろうと。\\
 +
 +> ビルの言葉によれば、エビーにとっての実際の問題は、約40才になるまで一家の財産が尽きなかったことだという。それは仕事で生計を立てることを学ぶ時期としては、あまりにも遅すぎたのである。
 +
 +会社が潰れた後、エビーは保険のセールスに挑戦し、次に証券の仲買会社ジョン・ニッカーソンのオールバニ支社に就職した。エビー自身も認めていたが、朝に一、二本電話をかけるだけの仕事で、午後になるとセールスマンらが集まって酒を飲んでいた。大恐慌直前の活況でそんな仕事ぶりだった。\\
 +
 +1927年に母が、1929年に父が亡くなった。\\
 +
 +====飛行機のチャーター====
 +
 +> おそらく、父の死のすぐ後で、(まだ)僕がジョン・ニッカーソンで働いていた頃だ。・・・ビルがバーモントに戻る途中でオールバニに立ち寄った。彼は僕に電話をしてきて——土曜日だった——ダウンタウンで会おうと言ってきた。僕らは二杯ほど酒を飲んだ。一緒に酒を飲むのはそれが初めてだった。
 +
 +二人が一緒に飲んだのはたった一度きり。ビルはエビーの兄ケンと一緒に飲んでいた記憶を、エビーと飲んだと勘違いした。\\
 +
 +1927年に大西洋横断単独飛行を成し遂げたリンドバーグは、その年にオールバニを訪れた。\\
 +
 +エビーはオールバニ飛行場のパイロットたちと飲み友だちになった。彼らはアクロバット飛行を見せる芸人だった。その一人のパーティにエビーとビルは招かれて飲んだ。ビルは翌日列車でバーモントに向かう予定だったが、エビーが飛行士テッド・パーグに依頼して、マンチェスターに飛んだ。ビルの記憶では、飛行は1929年1月の土曜日だった。\\
 +
 +テッドは酔っていたので渋ったが、結局エビーとビルを載せて飛んだ。マンチェスターの滑走路はできたばかりで、まだ一度も飛行機が着陸していなかったので、ビルはマンチェスターの知り合いに最初の着陸をすると伝えた。住民は興奮して歓迎委員会を作り、楽団を出していた。\\
 +
 +着陸した飛行機の中で、ビルたちは酒をラッパ飲みをした。住民たちに挨拶をするはずだったが、コックピットから滑り落ちて、地面に寝転がっていることしかできなかった。
 +
 +=====An Exile in Manchester=====
 +
 +1932年にニューヨーク州知事選があり、兄のジャックは民主党の候補者にノミネートされていたが、選出に敗れた。エビーは何度も酒で行政官から譴責処分を受けていたので、その関係で、マンチェスターに引っ越すことになった。相続した金と、兄たちからの援助で、彼は裕福だったはずだ。\\
 +
 +1932~33年にかけての冬、知人の勧めでグリーンマウンテンの山小屋に行き、うさぎ狩りをしたり、グリーンマウンテン・トレイルの整備をして過ごした。「ジンを2パイント持ち込んだけれど、最初の晩に飲んでしまって、それっきりだった」\\
 +
 +半年後にマンチェスターに戻り、また飲んでしまった。その夏と冬は飲んだりやめたり。友人の家を出て、家族の所有する家に移った。そこで塞ぎ込んで、たくさん酒を飲んだ。\\
 +
 +酔って車を運転し、老夫婦の家に突っ込むという事件を起こした。(エビーは車から出てくると、クリームを少々と砂糖一つを入れたコーヒーを一杯老夫婦に所望したという)。\\
 +
 +そんな事件を起こしたせいで、小さな町でエビーはたちまち鼻つまみものになった。この事件と、さらに酩酊で2回逮捕された。\\
 +
 +> 僕はそれまでに2回軽い法律違反をしていた。どちらも5ドルの罰金で済んだ。もし酩酊で三度目に逮捕されることがあったら、こんな程度では済まないと言われていた
 +
 +====ペンキの塗り直し====
 +
 +サッチャーの家は現在も人目を引く邸宅としてマンチェスターのタコニック・アベニューに建っている。
 +
 +> 僕は家のペンキを塗り直すことにしたんだ。兄にはどう仕上げるか手紙を書いた。ちょうど良い大きさの梯子があったが、僕は酔ってふらふらしていたからうまく作業できなかった。梯子の下から三段目、四段目まではいいのだけれど、上の方はできなかった。
 +
 +=====Cebra, Shep, and Roland=====
 +====ローランド====
 +
 +> エビー・サッチャーがバーモントのオックスフォード・グループに参加したことが、アルコホーリクス・アノニマス(AA)の成立にとって決定的に重要な一歩であった。
 +
 +|ローランド・H|エビーに個人的援助とスポンサーシップを提供した。エール大学の卒業生。|
 +
 +ローランドとシェフはもともと友だちだった。セブラはOGで二人と知り合った。\\
 +
 +> 治療を行ってもローランドに継続的なソブラエティをもたらすことができなかったとき、彼が回復するための唯一の希望は、ある種の決定的な霊的体験を探し求めるほかない、とユングは伝えたのである。\\
 +> 注目すべきは、この提案をもたらしうるのはユンギアン(ユング学派)の視点のみであるという点だ。当時よりポピュラーだったフロイト学派あるいはアドラー学派には、宗教的体験が入りこむ余地はほぼなかったからである。\\
 +
 +ローランドはユングの提案に従って、オックスフォード・グループに加わった。\\
 +
 +> AAグレープバイン誌の1995年5月号に、ケンタッキー州ボウリンググリーンのロン・Rによるローランドについての優れた記事が掲載された。
 +
 +セブラ・Gが1954年に残した記録によると、ローランドはマサチューセッツ州のサウス・ウィリアムズタウン(South Williamstown)からピッツフィールド(Pittsfield)に向かって車を運転しているときに、「もうお前はそれ以上飲む必要はない」という内なる声を聞いた。そこでローランドは、いつも持ち歩いていた1パイント瓶を、道沿いの藪に投げ捨てた。\\
 +
 +ユングに魅了され、助かると思ったが、合衆国に戻って飲んでしまい、もう一度治療を受けにユングのところに行った後はすっかり意気消沈していた。やがてオックスフォード・グループに加わり、その教えの単純さに感銘を受けた。この国のあちこちの場所で開かれたいわゆるハウス・パーティに非常に多数参加し、死ぬまで熱心に活動した。\\
 +
 +====セブラとシェフ====
 +
 +|セブラ・G|バーモント州ベニントンの有名な裁判官の息子。一家は裕福で、自身は弁護士。OGでローランドやシェフと知り合った。最終的にはフランスに移住し、1979年に亡くなるまでそこで過ごした。|
 +|シェフ・C|ローランドとは元々友だちだった。セブラとはOGで知り合った。ニューヨークの株式ブローカー。エビーと一緒にビルの家を訪れたこともある。ビルとはマンチェスター州バーモントで1919年以来の知り合いだった。第二次世界大戦では大佐になり、戦後はミルウォーキーに基盤を置く大企業の重役となった。|
 +
 +最初にエビーを訪問したのは、セブラとシェフだった。二人ともエビーの以前からの知り合い。\\
 +二人はオックスフォード・グループの説明をした。エビーはそれを宗教的運動と受け取った。エビーにとっては子どもの頃から教えられてきたことでもあった。\\
 +
 +> 彼らはこう言いました。君はこれまで自分の流儀で生きてこようとし、それで運が傾いて、何ひとつ成し遂げられず、死にそうになるまで飲んでいた。これからは、人生を神にゆだねてみたらどうだい?
 +
 +オックスフォード・グループはメンバーに酒をやめることを直接求めておらず、暗黙の要求にすぎなかった。オックスフォード・グループのメンバーは、アルコホーリックはタバコもやめなければ、やがて飲酒に戻ると信じていた。こちらの信念はAAでは採用されなかった。\\
 +
 +> ぼくがアルコホーリクだという意味では、二人はアルコホーリクではありませんでした。二人とも大酒みでした。彼らは多かれ少なかれ権力欲が強かった。
 +
 +----
 +セブラはベニントンの若き法律家だったが、裁判官をしている父親とのなかは良くなかった。セブラの記憶によれば、ローランド・Hと出会ったのは1934年両親の家でのパーティだった。その後のことだが、セブラは父親と揉め、ドアに鍵もかけずにオフィスを飛び出していった。マサチューセッツ州ウィリアムズタウンを目指して南に歩いていたところ、ローランドの車に乗せてもらうことになった。ローランドは彼を別のオックスフォード・グループのメンバーの家に連れて行き、そこで彼はグループの原理を紹介された。\\
 +
 +セブラはニューヨークのOGに参加したときにはまだ飲んでいたが、ベニントンに戻って両親に埋め合わせをした。\\
 +
 +> セブラはローランド・Hに会いにアーリントンのローランド邸を訪問したと語った。そこにはシェフ・Cもいた。三人は、そこのプールで泳ぎながら、オックスフォード・グループのやり方で伝道活動を行うことを決めた。
 +
 +セブラはエビーのことを思い出した。\\
 +
 +> そして私はエビー・サッチャーのことを思い出した。私は長い間、マンチェスターにゴルフなどをしに行っていたので、そこにいる彼とはずっと前からよく知る仲だった。
 +
 +セブラが、シェフを誘ってエビーの家を訪問。酔って寝ていたエビーの服の汚れを落とし、レストランで食事させ、オックスフォード・グループの話をした。だが、エビーはペンキ塗りの途中だった。\\
 +
 +雨の中、鳩をショットガンで追い払うエピソードが起こる。警察に通報され、翌日警官が見に来たが、エビーが寝ていて出てこなかったので帰った。\\
 +
 +だが、エビーは街で酔っ払っているところを、巡査に逮捕され、ベニントンに送られた。バーモント州の「習慣的酩酊法」は酩酊で三回逮捕された者を、刑務所に6ヶ月投獄できる。\\
 +
 +コリンズ・G判事はセブラの父親。「月曜の朝の審理にはベニントンに戻っているように」と言われ、エビーは「きっと素面で戻ります」と約束したが、マンチェスターに戻る前に、ベニントンでエールを飲んだ。\\
 +
 +====エビーの奇跡====
 +
 +地下室で何かが起こった。やがてそれは驚くべきターニング・ポイントであったことが明らかになっていく——エビーにとってのターニング・ポイントであり、ビル・ウィルソンにとって、また彼らに続いて回復した多くの者にとってのターニング・ポイントでもあった。\\
 +
 +> 僕は下へ降りて、ビールの瓶に手を伸ばした。けれど、瓶を手にすることができなかった。僕はしらふで戻ると言った。ここで飲んでしまえば本当のしらふではなくなってしまう。階段を上ると、声が聞こえてきた。「おい、いいじゃないか。下へ降りてビールを飲めよ。ほら、震えているじゃないか。降りていって飲めったら!」 けれど、僕はそうすることができなかった。それはゲームの公正な進め方だとは思えなかった。結局僕は、ビールには手を出さない決心をし、三軒か四軒先に住んでいた友人にそれを譲り渡した。すると、僕はすべてのことから解放された気持ちを味わった。その感覚はそれから二年間続いた。それが当面の間、その問題から完全に解放された始まりだった。
 +
 +月曜の朝、エビーは判事のところに出頭。三人目のメンバー、ローランド・Hが登場。エビーは彼に以前ちょっと会ったことがあるだけだった。\\
 +
 +> ローランド・Hは僕を助け出すために来てくれた。彼が僕のことを引き受けると言うと、判事は彼の監督を受ける条件で僕を解放してくれた。僕は自分の家に戻ったが、三日か四日後に水と電気を止め、家の冬じまいをした。それからマンチェスターの15マイルほど南にあるシャフツベリー(Shaftsbury)という街に行った。そこでローランドと一週間ほど過ごし、それから二人でニューヨークに出てきたんだ。
 +
 +> 僕の様子を見に来た最初の日に、彼は家の掃除を手伝ってくれた。すっかり乱雑になったものを一緒に片付けてくれた。
 +
 +ローランドがエビーを車でニューヨークに連れて行き、しばらく彼はシェフ・Cのアパートに滞在した。そして、おそらくシェフの手助けで、カルバリー伝道所に滞在する。\\
 +
 +(ビルを助けた後のエビーは、他のOGメンバーとマンチェスターに戻り、高校や短大や街の集会所で話をした。\\
 +
  
rds/ebby.txt · 最終更新: 2019/06/18 03:28 by admin

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