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RDセッション情報

 イントロダクション
 S1
 S1 (2)
 エビー
 エビー (2)
 エビー (3)
 メモ

rds:ebby2

エビー (2)

カルバリー伝道所の住人

ニューヨークに行ったエビーは、最初はシェフ・Cのところにいたが、やがてカルバリー伝道所のブラザーフッドの一人と住むようになった。

シューメイカー師

シューメイカーは、メリーランド州の有名な家系の一員。プリンストン大学卒業。1918年に中国の北京で開かれたオックスフォード・グループのミーティングでフランク・ブックマンと出会った。聖公会で叙任。マンハッタンの上流中産階級が住む地域にある、カルバリー教会の牧師に。協会の所有する土地に、救貧施設(カルバリー伝道所)を作った。シェフとローランドはカルバリー協会の教区委員だった。

カルバリー伝道所

19世紀に、ジェリー・マコーリー(Jerry McAuley)によって設立されたウォーター・ストリート伝道所から派生したもの。彼は卑しい飲んだくれだったが、シンシン刑務所で宗教的な回心の体験をした。

それを受け継いだのがS・H・ハドリー(S. H. Hadley)。彼の回復の物語は『宗教的経験の諸相』に実例として載っている。
ハドリーの息子ハリー(Harry)また宗教的な回心の体験を得て、自らも救貧伝道所を始める機会をうかがっていたなかでサム・シューメイカーと出会った。この二人の協働によってカルバリー伝道所が誕生した。

エビーは伝道所によく溶け込んだ。伝道所には12人の「ブラザーフッド」がいたが、エビーもその一員になっていたと思われる。ここに来る男たちは個人的な降伏を行った(エビーの降伏の日付は1934/11/1)。

僕が伝道所にいて、オックスフォード・グループの人たちと一緒に活動していたとき、飲酒のせいでビルが困窮していると聞いたんだ。ある日、僕が電話をすると、彼の奥さんのロイスが出て、翌日だか翌々日の夕食に招待してくれた。

エビーはウォール街の友人たちを訪問してビルのトラブルを聞いた。

その日の午後、ビルと話しているとき、彼が驚いていたのは、僕がしらふでいるという事実だった。そして、僕が彼に話をしにきた理由が、オックスフォード・グループの教えによるものだ、ということにも驚いていた。

ビルは、エビーと一緒に地下鉄の駅まで歩きながら、「エビーが見つけたものが何であれ」自分もそれが欲しいと言った。

(別の日の午後、エビーはシェフ・Cを伴ってビルを再訪した。だがシェフがOGの自慢話ばかりするので腹を立てて酒を飲んだ)。

カルバリー伝道所を訪問。途中、フィンランド人の漁師アレクと知り合って同伴(アレクはその後ウィルソン夫婦の家に同居して何度も酒のトラブルを起こしたが、突然失踪した)。地下鉄の駅を降りてから、あちこちのバーに寄ったので、伝道所に着いたのは夕方になっていた。管理人のテック・フランシスコに追い返されそうになったが、エビーが迎え入れてくれた。その夜のミーティングで、ビルは悔悟者に混じって前に進み出て、話をした。

ビルは前の日曜日の夜にカルバリー教会に行き、そこでアッビ・サッチャーが演台の上で、神の助けによって何ヶ月も飲まないでいるという事実をもとに信仰の証しをしているのを見た、としゃべった。アッビ・サッチャーがこの伝道所で助けを得られたのなら、同じように助けを必要としている自分も、ここで助けを得られるのではないか・・・。ミーティングの終わりに懺悔の案内が行われると、ビルとジョンソンは前に行ってひざまずいた。

ビルの入院

12/11ビルが入院。12/14エビーが面会に行く。これはオックスフォード・グループの典型的な活動だった。エビーはOGの原理について基礎的な理解を持っていたからこそ、それをビルに手渡すことができた。

だが、ビルが霊的体験を得たとき、それを受け止めることはできなかった。代わりにウィリアム・ジェームズの『宗教的体験の諸相』を貸した。

ビルがこの本の事例の中に見つけた共通要素(pass it onより)

  • (a)災難、あるいは人生の重要な領域における完全な敗北
  • (b)敗北を認めること
  • ©ハイヤー・パワー(大いなる力)の助けを懇願すること

12/18ビルの退院。

エビーは、およそ1年をカルバリー伝道所で過ごした後(1935年夏まで?)、ウィルソン夫妻と同居するようになった。およそ1年間。ロイスはエビーから受け取った食費の記録を付けていた。(アレクも同居したが、突然いなくなった)。

カルバリー・ハウス

  • カルバリー・ハウス:カルバリー・ハウスとカルバリー教会は少なくとも中流以上の支持者のため。
  • カルバリー伝道所:カルバリー伝道所はエビーのようなホームレスが保護を求めるためのもの。

 お互いに交わりは持っていなかった。

ロイスによると、ビルは破産しているにもかかわらず、ブルックス・ブラザーズの上等なスーツを持っていた

 ビルは、カルバリー教会の人たちと交わり、カルバリー・ハウスでのミーティングに参加した。

オックスフォード・グループの人たちは、飲んだくれにそれほど関心を持っていなかった。カルバリーハウスの二階に裕福なアルコホーリクを泊めてみたが、彼らの行状は伝道所の男たちよりひどく、OGは世界を変えることに集中すべきだとなった。

ビルたちがカルバリー伝道所のアルコホーリクに働きかけることは、良しとされず、彼らが自宅でのミーティングにアルコホーリクを招くことも非難された。やがて、伝道所のリーダーたちがクリントン・ストリートのミーティングに出ないように命令したことで、1937年に彼らはOGを離れた。

シューメイカー師もやがてOGを離れ、何年も経ってからビルとロイスが受けた仕打ちについて謝罪した。

失意の年月

1936年夏、エビーはオールバニに戻り、11月にはグリーン・アイランドのフォード・モーターで検査部門の仕事を得た。だが、7ヶ月後、ニューヨークに旅をして、女性と食事をしたときに飲んでしまった。

  • 原因不明の不安や鬱に苦しめられていた→多くのAAメンバーが飲まないでいる。
  • 公開と恨みの感情→これも回復中にはあって当たり前。

「酒をやめ続けるためには良い女性と満足のいく仕事が欠かせないと信じていた」→回復する人はそういった条件を要求しないことを学んでいく。

不況の中、フォードの検査部門に職を得られたのは幸運だったが、彼はその仕事が幸せだとは感じなかったようだ。ニューヨークの女友達は彼と会うときにはいつも飲んでいた。その時は彼も飲んでしまい、何日も仕事を欠勤したが、仕事に戻ることを許された。だが、貨車の荷物を下ろすというきつい仕事を割り当てられ、それを理由にまた飲んだ。

1938年、エビーはビルの家にしばらく滞在した後、メリーランドのフィッツヒュー・Mの家に滞在した。ビルとフィッツはビッグブックのことで全米を飛び回っていて不在だったが、エビーはフィッツの子どもたちと素晴らしい夏を過ごした。(彼は稼ぎ手としての責任から解放されていると安心していられたようである)。

秋にニューヨークに戻るとすぐ飲んでしまい、11月にニュージャージー州のアルコホーリク向けのケスウィック慈善コロニー(the Keswick Colony of Mercy for drunkards)に行った。

1939年春にニューヨークに戻り、兄ジャックのつてで、ニューヨーク州の世界博覧会の現場での仕事にありついた。夏の間、飲酒を隠して仕事を続けていたが、秋になり展覧会が閉じると飲み方がひどくなった。
このころエビーは、インターグループやGSOから仕事を請け負っていた。
1940年春、もう一度仕事に戻してくれとボスを説得したが、夏にまた駄目になり、秋にはまたニュージャージーへ。

エビーは、ニュージャージーからルース・フック(GSOの秘書だった女性)に手紙を出している。

1941年12月?海軍の魚雷を作る工場で監督の仕事

  • 海外に様々な物を輸送する地元の業者の購買係のアシスタント
  • サウス・フィラデルフィアの電力会社の蒸気タービン部門
  • 赤十字の梱包部門
  • ペンシルベニア大学の構内にあったAAクラブのスチュワード(管理人)\\ →2ヶ月やめては半年飲む・・・1945年の秋まで繰り返した。

1945年秋、ニューヨークに戻って、ビルとロイスと一緒に住みAAグレープバインの販売部門で働いた。

1946年から1947年、コネチカット州ケントのハイ・ウォッチ・ファームへ。ジョニー・サップルという責任者に気に入られたが、酒を飲んで手を焼かせていた。また、兄らから金を借りては飲んでいた。

どん底

1948年11月、ニューヨークの馬術クラブの仕事をビルが世話してくれたが、飲んで解雇されてしまう。
金を渡さなければ見殺しにすることになり、渡せば飲んでしまう。
兄ジャックとビルは手紙をやりとりしながら、思案するが良い手段がない。飲酒にもかかわらず健康状態は良好で、長期間の入院は拒んでいた。
多くの知り合いが、エビーの金の無心に答えたのは、感謝の気持ちばかりではなく、なすすべがなかったから。

ハイ・ウォッチ時代のジョニー・サップルから、ビーチ・ヒル(「ニューハンプシャー州ダブリンの回復中のアルコホーリクのための山頂の療養施設」)でやり直すチャンスを与えらえらた。
(ビーチ・ヒルは引退後のシルクワース医師が勤める予定だったが心臓発作で亡くなった)
数ヶ月酒をやめては飲むの繰り返しで、ニューヨークに戻って市の宿泊所に住み、仲間の手助けを受けるようになった。だが、金を与えることは常に酒を意味し、皆が途方に暮れていた。

AAメンバーのやっている輸出商社での仕事。牧場での肉体労働。精神病院での仕事。

GSOにエビーがやってきて、長椅子で寝てしまうこともあった。他のオフィスなら警察を呼ばれていただろうが、GSOのスタッフはエビーにそうすることをためらった。そこへ、学者風の男が現われて、AAのことを書いた本を出す準備をしているのだが、たったひとつエビーが今どうしているかの情報だけがない、と言った。

ビルはエビーを探す捜索隊を出した。ビルがエビーに対して、平均的なアルコホーリクのメンバーに対する現実的な扱いとは違った扱いをしていることにAAメンバーたちは気づかざるを得なかった。

恩義が大きかっただけに、ビルはエビーにとっての「イネイブラー」になってしまっていた、と考える人が多かった。

やがて、彼の外観も状態もひどくみすぼらしくなってしまった。安酒場と簡易宿泊所を往復し、金がなければ夜の町を徘徊し、退歩されて留置所で過ごすこともあった。

テキサスでの再生

big country, big heart(大きなテキサス州、寛大な心を持ったテキサス人)。

テキサス
 サーシー・W — 1946/5よりソーバー
 オーリン(「オリエ」)・L
ニューヨーク
 ビル・ウィルソン
 チャーリー・M
 セブラ・G

サーシーがダラスで酒をやめ、すぐにエール大学のアルコール研究サマースクールに参加した。
エルヴィン・M・ジェリネク博士とホーレス・FというAAメンバーの勧めによるもの。
彼はダラスの「テキサス・クリニック」を創設。飲んだくれの治療を行い、18ヶ月で700人を治療した。

1953年の初め、サーシーがビルとロイスを招いて、クリニックを紹介した。ビルはエビーをクリニックで診て欲しいと希望。
ニューヨークのチャーリー・Mが、パリでセブラ・Gと出会い、エビーのことを話し合う。
オフィスのヘイゼル・Rがエビーを迎え、チャーリー・Mに連絡を取る。
チャーリーがエビーに酒を飲ませ、テキサスへ誘う。
9月6日、エビーがテキサスへ。サーシー・Wとオリエ・Lが迎えた。
しばらくは無口で何もしゃべらなかったが、少し前向きなことを言うようになった、と11月9日のオリエのビルへの手紙。

テキサスで彼は人気を得た。彼自身の言葉「人々は・・・ビル・ウィルソンに酒をやめさせたが、自分の酒はやめられなかった人物と会うことを望んだ」

1954年6月に、テキサス州のカンファレンスがあり、ビルは普段は断っているカンファレンスへの招待に応じた。
このカンファレンスで二人は再会。エビーの話を録音する手配をビルがした。

E・D・「イキー」・S:テキサスでのビルの庇護者。散歩に出かけて窃盗と間違われて逮捕されたエビーを助け、その後庇護者となった。
エビーはテキサス・クリニックに住んだままだったが、熱心にAAに取り組むようになった。それが「良い女性と良い仕事」という彼の願いからの行動だったが。
だが、エビーに仕事をさせようというビルの熱意にもかかわらず、エビーはなかなかそのつもりになれなかった。

トライアングル・J牧場

1954年の夏、カンファレンスのおよそ一ヶ月後に、テキサス州オゾーナ近くのラルフとマリー・リー・Jのトライアングル・J牧場に二ヶ月滞在した(1958年に再訪)。牧場での仕事は、エビーに力仕事が無理なことを教えてくれた。
夫婦の高校生の娘は、エビーを「多くのことに関心を持った教養ある男」と記憶している。彼女は、エビーがコントロールされた飲酒に戻れると信じているので口論することもあった。
9月初めにはダラスに戻った。

再びダラス

1954年の終わりにスリップしたが、その後は7年間飲まずにいた。

AAメンバーであるハル・Nが営む印刷所で働いた。ハルは、オクラホマ州の放棄された油田を新しい技術で再開発しようともくろんでいて、そのための投資をビルとその友人たちに期待した。だが、ビルはウォール街から遠ざかって長い時間がたっており、投資家の友人はいないという返事を書いてきた。

セントルイスのコンベンション

1955年6月のセントルイスでの国際コンベンション。AAの三つのレガシー——回復・一体性・サービス——が運動体そのものに引き渡された。エビーも費用をAA持ちで出席した。

ダラスでの仕事

 ハル・Nの印刷工場での仕事は、週に37ドルだった。印刷工場をやめた後は、いっとき建設業を営んでいたイキーの信号旗手として働いた。
 次に、古レンガの再生業をしていたAAメンバーのベン・Tのところで働いたが、重いレンガの仕事は彼にはきつすぎた。

 トム・BというAAメンバーが、ダラスのラブ・フィールドで、飛行機の余剰部品を扱う仕事をしていたが、エビーに簿記と在庫部品の管理の仕事を与えた。彼はオールバニで家業に雇われていた時期を除けば、この仕事を一番長く続けた。


エビーは、人気のあった映画『影なき男』シリーズの主役を演じたウィリアム・パウエルに似ていた。
テキサスでの彼は、あちこちのAAミーティングで話をするように頼まれ、録音テープも残っている。


 トムによると、エビーは「この世界には自分の生活の面倒をみる義務がある」とかなり本気で考えていた。また「自分はしかるべき評価を得られたことが一度もない」と考えていて、それが気に入らなかった。それでもエビーはしらふで仕事を続けた。トムはエビーの週給を50ドルから90ドルに上げた。

 また、他のメンバーによれば、エビーは「ビルや、ドクター・ボブや、他の人たちに深い恨みを持っていた」。なぜなら、彼は、他の誰でもなく、自分こそがAAとなったものの創始者である、と感じていたからだ。

 しかし、ビルはそうした反感に気づいていたとしても、それに反論することをしなかった。ビルは多くの批判にさらされたが、応戦したり、批判する人たちを非難せず、常に感謝を忘れなかった。ビル個人にとっても、AAにとっても、そうした落とし穴を避けることが賢明であると彼が感じていたことは明らかだ。

 だが、ロイスはそれほど寛大ではなかった。ビルが常の心の底からソブラエティを望んでいたのに対して、エビーはそうではなかった。「あの極めて重大なビルへの訪問をした後は、エビーはほとんど他の人を助けることをしませんでした。彼は真のAAメンバーと見なされたことは一度もありません。最初のスリップの後、たくさんの有害な考えが彼の中を占めてしまったようでした。彼はビルに対し妬みを表すようになり、しらふの時でさえオックスフォード・グループとAAの両方を批判するようになりました」

 ビルは、エビーの求めに応じて金を送っていた。トム・Bの会社での賃金は次第に増えていったが、エビーが完全な経済的自立に至ることはなかった。

 マーティ・Mは1980年のインタビューの中で、初期のニューヨーク地域のメンバーで回復できた者はほんの一握りだったと説明した。「何度でも戻ってきたのはエビー・サッチャーただ一人だけでした。それはビルが魚網を持って捕りに出かけたからでした。彼がエビーをたぐり寄せたのです」 そしてビルのエビーに対する手助けは「単なる感謝の域を超えていました。私が思うに、彼はエビーに対して親近感を感じていたのだと思います。どんな親近感かって? それは私にもわかりませんが、とても近しい、兄弟にも劣らないような」 そして、エビーを知る他の多くの人たちと同じように、マーティもエビーをとても好感の持てる男だと言い表した後で、「私も彼に関わった一人なのですが、私も彼を助けようとして打ち負かされてしまった一人なのです」と付け加えた。

rds/ebby2.txt · 最終更新: 2019/06/18 03:28 by admin

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