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rds:ebby3

エビー (3)

「理想的な女性」

エビーは自分に合った女性と、自分に合った仕事が手に入れば、望む幸せが手に入るはずだとずっと信じていた。

 その女性はクロエ・Kといった。かつては女優をしていたこともある魅力的な女性。サーシーのクリニックで看護師をしていたが、彼女の丸薬依存(pill habit)のせいで解雇された。1957年のこと。

 翌年、二人で、ラルフとマリー・リー・J夫妻を訪問したとき、エビーは彼女のことを『僕がこれまで生きてきたのは彼女と恋に落ちるためだった』と言った。

 エビーは彼女を愛していたが、クロエがエビーに期待したのは経済的なサポートだった。彼女の病状は悪化していった。1937年にスリップして以来、エビーは常に「受ける」側だったが、この時は「与える」側だった。それがエビーに大きな変化をもたらした。

 エビーの週給は90ドルまで上がっていたが、それでも足りず、ビルに「融資」を依頼した(実際には譲渡)。ビルは金を送るときには必ず感謝の言葉を添えた。「これは25年前、君がクリントン・ストリートにいた僕を訪ねてくれた歴史的出来事への大きな感謝を形にする現実的機会なのです」

 1961年にはビルの求めに応じて、エビーが生涯小切手を毎月受け取る条件が定められていた。常任理事会の理事たちは、最初は毎月100ドル送り、もし彼が本当に病気になったときには、200ドル、300ドル、あるいはそれ以上というふうに増やすことに同意していた。通常はありえない決定だったが、常任理事たちに対するビルの影響力はあまりに強かったので、彼らはビルのほとんどの要求に賛成した。

 エビーの肺の状態が衰え、健康状態が悪化していた。

 9月にはクロエが死に、エビーは翌日に酔っ払った。丸薬の乱用があり、仕事に影響するようになったので、トムはエビーを解雇した。

 治療を受けるためにテキサス・クリニックに戻ったが、そこはすでに彼のテキサスでのスポンサーであるサーシーの経営ではなくなっていた。

 12月、イキー一人に見送られてニューヨークに戻った。テキサスに来て8年と少々だった。
 数日間、ビルとロイスと一緒に過ごし、ニューヨークやマンチェスターへも行った。

 その後の2年間で4か所に住んだ。
  兄のケンの家に住む。
  ビル夫妻の家に1年あまり住んだ。
  ペンシルバニア州のチットチャット(回復施設)
  コネチカット州のハイ・ウォッチ

マクパイプ農場での平和

 マクパイク農場—ニューヨーク州サラトガ・スプリングスの近くのギャルウェイという街にあった。オールバニから25マイル。農場宛の郵便の宛先は東に7マイル離れたボールストン・スパになっていた。そこは、ビル・ウィルソンが自宅の目印としていつも使っていた場所だった。開設は1958年冬。

 1964年5月30日エビーが農場に到着。死んだのは1966年3月21日。

 マーガレット・マクパイプは准看護師で、看護の大会でニューヨークに出かけていた。ビルが農場に電話をかけてきて、マーガレットはGSOを訪ねた。エビーはコネチカット州ケントのハイ・ウォッチにいたが、マクパイプ農場にいてくれたほうが、面倒がよく見られるとビルは考えた。

 ニューヨーク州デルマーにいた兄ケンとの暮らしはひどい終わり方をしたようだ。ケンの娘エレン・フィッツパトリックは、エビーが去った後、空になったウォッカの瓶を30本以上隠されていたのを両親が見つけたのを憶えていた。

 農場に着いたときのエビーは、とても身体が弱っていて、医者は風呂に入れてはいけないと言った。

 エビーは肺気腫にかかっていた。晩年のビルも同じ病気に苦しめられることになった。二人ともヘビースモーカーだった。マリー・リー・Jによると、エビーの愛飲したタバコはキャメルだったという。ビル自身も肺気腫に完全にやられてしまうまで、決してタバコがやめられなかった。

 エビーはマクパイプ農場では酒を飲まなかった。この間AAミーティングには一度も出席しなかったが、マクパイプ夫妻や頻繁な訪問者たちとの交際が、牧場の雰囲気をAA共同体の展望と目的を反映したものにしていた。彼のテキサスでのスポンサーであるサーシー・Wが繰り返し述べたように、亡くなったときのエビーは2年半のソブラエティを得ていたと言って差し支えないだろう。

 マーガレットが受け取っているのは、週にわずか75ドルだけだったという。彼女の看護の目標は、彼が自分で着替え、一日二回の食事に階下に降りて来られるようになることだった。それほどまでに彼の状態は悪かった。

 1月、エビーの兄のケンがオールバニで亡くなった。ケンも飲酒の問題を抱えていた。ケンの死後、エビーは生きるのを諦めてしまったようにマーガレットは感じた。

 ビルとロイスはメキシコにいたが、エビーの通夜と葬式のために急いで戻ってきた。出席したのは数人の友人と家族だった。新聞の死亡記事は短かく、オールバニ元市長のジョン・ボイド・サッチャー二世の弟であること、テキサスとニューヨークで事務の仕事をしたことを述べていた。AAについては言及していなかった。

 エビーは、オールバニの街の真北にあるオールバニ郊外墓地の、一家の区画のなか、兄のケンの隣りに埋葬された。彼は死によって、著名な家族と再び一緒になった。

 6月、ビルによるエビーの追悼文がAAグレープバインに掲載。

エビーは、深い心の言葉を通じて私に手を伸ばすことで、神の恵みという贈り物を私に届けることができた。すべてのAAメンバーはエビーが開けたその偉大なる門をくぐって神のもとの自由を見つけた。

エビーと再発の世界

 AAでは「何が起きても飲むな」と言われる。それほどまでに連続したソブラエティは大事なこと。けれども、エビーのように、AAでスリップと呼ばれる飲酒の時期によって中断されつつも、長期間にわたってソブラエティを得たAAメンバーは何万人もいた。『アルコホーリクス・アノニマス』の初版に個人の物語を掲載した初期のAAメンバーのなかには、後にアルコールによるトラブルの中に戻ったとされる者もいるが、彼らの物語はいまでも多くの人を助け続けている。

 アルコホーリクが相手にしているのは、確かに巧妙な敵、不可解な敵、強力な敵なのである。アルコールは、不用心なアルコホーリクを様々なやり方で罠に落とす。私たちはそのすべての罠を見分けて暴く術を未だに手にできていない。

 私たちは、エビー・サッチャーが最初に飲酒に戻った1937年から亡くなる1966年までの間に、彼の直面したすべての問題を知ることはできない。彼は最初に2年7ヶ月の連続したソブラエティを得た。1950年代のテキサスでは約7年という長期に及ぶソブラエティを得た。そして亡くなる直前にはおよそ2年半のソブラエティを得ていた。もっと短いものも通算すれば、彼がオックスフォード・グループと最初に接触して以降の32年間で、15年のソブラエティを得たと思われる。ではあるが、彼はアルコホーリクだったので、彼がソブラエティの間に得たものは、飲酒のたびにすべて帳消しになってしまったのではあるが。

 最も重要なことは、彼がビルのスポンサーを務め、AAの創始につながる行動をとっていたこの極めて重要な時期に、彼がしらふであり、自分を捧げていたことだ。

 アルコホリズムを厳密に定義することは未だに困難である。すべてのアルコホーリクは、この質問に向き合わねばならない。「自分は本当にアルコホーリクなのか。それとも人生の難しい時期にたくさん酒を飲んでトラブルを起こしてしまっただけなのか」 エビーの場合、これだけの事が起きていたにもかかわらず、1954年の夏の彼は、相変わらずいつか安全な飲酒に戻れると信じていた。だが、実際にそれを試してみると、結果は以前と同じであった。

 私たちはまた、最初の一杯に負けてしまう問題を抱えた人でも、飲んでいない時に重要な善を成すことがあることを知っている。彼らはAAのミーティングに出席し、他の人のスポンサーを務め、彼らの経験と希望をそれを最も必要とされるときに提供する。

 このような貢献があるにしても、再発する人たちは、他の人たちが経験することのない苦痛とトラブルに苦しめられる。彼らのトラブルは、彼らを愛する人々に苦悩をもたらす。再発の世界に囚われた彼らに対する答えを私たちは持っていないかも知れないが、私たちは落ちた彼らを支え、勇気づけるためのあらゆる努力をするべきである。多くの人たちが、スリップした後も生きて還ってくる。私たちはこうした実例を、誰もが見られる形で保ち続けなければならない。長い期間にわたるソブラエティを賞賛することはかまわないが、私たちはトラブルを抱えながらも、ソブラエティの世界に生還してくる人たちに特別な賞賛を送るべきだろう。

 エビーが抱えていた問題が何であったにせよ、彼は正しいメッセージを、正しい人間に、正しいタイミングで届けた。そのことについて、私たちは常にエビーに——また、そうした動きのすべてをつかさどったハイヤー・パワーに、感謝すべきである。

rds/ebby3.txt · 最終更新: 2019/06/18 03:28 by admin

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